味覚も考えも甘ったれなみるきーの随筆

本音って甘いだけじゃ物足りない。

私は何処へ行ったのか

 

初対面の人とうまく話せるようになりたいって

何度思ったことだろう。

私は極度の人見知りである。

 

そもそも人見知りってなんだ。

 

困った私はインターネットで検索をしてみる。

 

 

「人見知り」

生後6ヵ月頃から始る,見慣れない者が近づくと微笑を示さなくなり,さらに恐れを示すようになる反応。乳児生後2~3ヵ月から5ヵ月頃までは誰にでも,近づいてくる顔を認めると微笑反応を示すが,6ヵ月頃から見慣れた者と見慣れない者の顔を見分けるようになり,見知らぬ人が近づいたり,抱こうと手を伸ばしたりすると顔をそむけたり,泣き出したり,母親にしがみついたりする。これは見慣れない者に対する恐れの情緒が発達してきたためと考えられ,人に対すると同時に見慣れない場所に対しても同様の恐れを示す。人見知りは8ヵ月頃から激しくなり,1年近くで消えるものであるが,環境によっては2~3年も続くことがある。養育者が多数で交代するような環境では人見知りの出現が遅れたり,現れないこともある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

 

 

おっと、、、

人見知りってこういう意味だったのか。

また一つ賢くなったとともに馬鹿らしくもなる。

24歳にもなって私はまだ、ここまで幼かったのか。

 

 

さて、私が初対面の人とうまく話すことが

できない訳に向き合ってみる。

 

 

そのコンプレックスとは「素直になれないこと」。 具体的に言うと、「相手に思われている像になりきる」と 自分の中では捉えています。

思い立ったが吉日 - 味覚も考えも甘ったれなみるきーの随筆

 前回の内容に被るが、素直さを持ち合わせていない私は

素の自分、本来の自分の表現が恐ろしいほどにできない。

 

考えてみると、本音を打ち明けたことなんて、これまた24年間の中で片手とは言わないまでも

両手で数えられるくらいではないだろうか。

 

 

2ヶ月ほど前、自分でも驚くほどに仕事に身が入らず、

無責任な日常を過ごしていた。

 

理由は様々あれど、一つ、会社(上司)の考え方と

私の考え方が合わずにモヤモヤ、、としていた。

 

そこで、物心が付く前を除くと人生で初めて

父親に社会人の先輩として本音ベースで相談をした。

 

自分の悩みを伝え、感情を露わにし、

最終的には何一つ解決も進展もしなかったけれど。。

ただ、気分は非常に晴れて、何かを掴んだ気がした。

 

そして、父親も初めて本音の相談をしてきた息子に対して、

お酒混じりで酔っ払いそのものの話し方ながら

何とか応えようと色々と話して。

 

ここで私の中で一つ大きな変化が生まれた。

本音を伝えるって良いなと。

 

 

実は7歳の時に母親に一度だけ本音ベースで相談したことがある。

引っ越してきたばかりで周囲に友人がいない環境の中で

クルクルな強い癖毛、ぎょろぎょろとした大きな目など

外見を用いた悪口、いじめまがいな扱いを学校で受け続け、

単純に「しんどくて、生きている意味があるのかな。」と。

今となっては可愛らしい悩みながらも親にはセンセーショナル、

泣きながら話した私よりも大きな涙を目に浮かべていた。

 

そこで私はかなりの衝撃を受けた。

元来、涙とは弱者の象徴であり、大人とは強い存在だと、

延いては親であれば子どもの抱える様々な恐怖を全て

薙ぎ払う圧倒的な存在だったと思い込んでいたところに

親が泣くという事実が自分の常識を破壊する、

ハンマーセッション的な出来事があった。

 

そこから本音を、自分の悩みを、人に打ち明けることは

良くないことだと思い込むようになった。

 

それから思春期に差し掛かり、余計に没個性的な日々へ。

ふと気が付くと、自分がやりたいこと、なりたい姿、

どういう人間なのかを見失っていた。

 

そこからである。

人見知りという表現は控えようか、

初対面の人に対して上手く話すことができなくなったのは。

 

自分がどうする、ではなく、

相手にどう思われているのか、

どういう人間だと捉えられているか、

その期待にどう応えようか、

という過ごし方になっていた。

 

だからこそ、実家での私、中学時代の私、

高校時代の私、大学時代の私、社会人の私、

全てが違う私を表現している。

しかも、所属している環境によって、また異なる私となる。

 

多分大学時代の色々な私が一番素に近く、かつ、

環境が変わっても殆どが同じような私になっていたと思う。

 

ただ、社会人の私で2年ほど過ごすうちに、高校時代の私や

大学時代の私がどういう人間だったかを見失ってきている。

この事実に気付いた私はひどく悲しみを覚えた。

 

以前大学時代のサークルの創設者の話を聞いた際に、

とても印象に残った話がある。

 

なぜなら、「歳をとっていく」というのは「自分を知っていく」ことだから。

わたしたちは、特別になれるか。|Naoki Ota|note(ノート) https://note.mu/ot_john/n/n74d9828c0c94

 

本題とは異なる部分かもしれないが、このフレーズが最も響いた。

  

新しい自分が新しい環境に身を置くたびに生まれてくる。

即ち自分を知っていく。

 

対して、新しい自分が身についてくると

過去の自分を次第に忘れてしまっている。

即ち自分を見失っていく。

 

どうして、私は逆行してしまっている。

 

このもどかしさを何で解決できるだろう。

悩むも分からず、また日々の仕事に忙殺され、

気付くと悩むこともなくなっている。

 

所詮その程度の重要度だったのか、と

これまた私に失望し再び、ひどく悲しみを覚える。

 

私とはどういう人間なんだろうか。

 

素の自分ではなくとも、全ては私。

勿論好きな部分、良いと思う部分もありながら、

嫌いな部分、悪いと思う部分も備わった私。

 

今は不定期ながらも始めたこの趣味を通して、

自分を見つめなおす時間を設け、探していく。

見失ったものも拾いに行く。

 

私探しの旅。いざ行かん。